バラック生活や買い出し列車、引揚げ、DDT散布、闇市など終戦直後の日本を撮影した映像を紹介します
バラック生活 |
東京都八王子市 |
昭和20年9月15日 |
米国立公文書館提供 |
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買い出し列車 |
宮城県仙台市 |
昭和20年9月23日頃 |
米国立公文書館提供 |
授業風景 |
長崎県 |
昭和20年11月頃 |
米国立公文書館提供 |
引揚げ |
現広島県大竹市 |
昭和21年3月頃 |
米国立公文書館提供 |
DDT散布 |
現広島県大竹市 |
昭和21年3月頃 |
米国立公文書館提供 |
焼け跡 |
大阪府大阪市 |
昭和21年頃 |
米国立公文書館提供 |
闇市 |
京都府京都市 |
昭和21年頃 |
米国立公文書館提供 |
駅頭・新宿駅 |
東京都新宿区 |
昭和21年頃 |
米国立公文書館提供 |
空襲によって家を失った人々は、廃墟と化した焼け跡でバラックでの生活を余儀なくされました。配給は滞り、あらゆる生活用品が不足して、食糧や日用必需品は非合法の闇市(やみいち)や買い出しによって手に入れざるを得ませんでしたが、さらに外地からは約650万人の引揚者が日本に戻り、物資不足は一層厳しいものとなりました。このようななか、選挙法の改正や農地改革などが行われ、さらに昭和22年(1947)には新憲法も施行されて、復興に向けて再出発しました。
昭和20年(1945)は気候や戦時中の肥料投入不足などが原因で田畑が荒廃し、異常な凶作となった。さらに海外からの引揚者の増加も食糧不足に拍車をかけた。全国的に遅配・欠配が続き、政府は食糧危機を切り抜けるために、GHQ(連合国総司令部)に対して食糧輸入を要請し、実行された。国民は正規の配給量だけでは必要な栄養素を維持することができず、特に生産手段を持たない都市部住民は、地方への買い出しや闇市に頼るほかはなかった。
戦後の住宅事情は深刻で、昭和21年(1946)3月からは都会地への転入抑制が行われた。終戦時の全国の不足住宅戸数は420万戸であったが、23年8月末までに131万余戸が建設されたに過ぎず、この間の火災、風水害などの現象を差引くと350万戸が依然不足していた。なかでも戦災と建物疎開により全住宅の56%にあたる約77万戸を失った東京の住宅事情は最悪であった。終戦後、約200万戸の住宅が建設されたが、26年3月の時点でも320万戸が不足していた。
闇市は、東京新宿に始まり、主要駅周辺にテキ屋などが中心になって作られ、またたく間に全国に広がって行った。配給だけではまかなえない人々の食糧を一手に引きうけ、食料品や軍需工場の放出物資が売られ、統制物資でも金さえ出せば手に入れることができた。食べ物では、ふかしいも・雑炊・するめ・とうもろこし・粕汁などの立ち売りの店が並び、なかには、お湯にしょうゆをたらしただけの汁なども売られていた。
闇市の中心は復員した若者たちで、都市と農村を往復して食糧を運び込む担ぎ屋と、それを闇売りするヤミ屋の両方を兼ねていた。扱う商品は、食糧関係が40.7%、日用雑貨が38.7%、家庭金属物関係4.2%、工具類1.8%、皮革関係1.5%、電気機具1.7%、その他11.4%であった。
戦争が終わっても、住居は空襲によって焼失しており、食糧の確保にも苦労する日々が続き、特に都市部では人々の生活は混乱を極めていた。衛生状態も悪く、バラック生活・買い出し・闇市・タケノコ生活などに見られるように、人々は貧しい生活に耐えていた。このようななか、 外地からは約650万人の引揚者が日本に戻ってきた。一時的に物資不足はさらに深刻なものとなったが、働き手の帰国とともに、昭和22年(1947)5月3日には新憲法も施行されるなど、次第に戦後の復興の兆しが見え始めてきた。
極度な物資不足と食糧不足により、多くの国民は大変厳しい状況にありましたが、なかでも夫や父親を失った遺族の苦労はなおさらでした。戦中では戦死はお国のためであり、遺族は「誉れの家」として称えられて、恩給の給付や周囲の励ましに支えられていました。しかし、戦争が終わると遺族に対する想いは一変し、昭和21年(1946)2月には恩給も停止されて、遺族を取り巻く環境はますます厳しいものとなっていきました
女性が就ける職業は少なく、内職で生計を立てる母親を見て育った子どもたちは家事を手伝い、進学を断念せざるを得ないことも少なくありませんでした。
戦争中には、戦死は御国のためであり、遺族は「誉れの家」などとして称えられた。また、国からは恩給が給付され、町内会や隣組、婦人会などによる遺族や留守家族に対する救援活動も活発に行われていた。しかし、戦争が終わると、遺族に対する想いも一変し、さらに昭和21年(1946)には「恩給法の特例に関する件」(勅令68号)が公布され、遺族に対する恩給が停止・制限されることとなった。無事に生還した人々は家庭に戻り、混乱のなかにも新しい生活をはじめたが、一家の働き手を失い、さらに子どもを抱えた母親の生活は一層厳しいものとなった。
戦争の終結によって空襲におびえることはなくなったが、衣食住すべての面において戦中を上回る物資不足により、人々の生活を取り巻く環境は厳しいものであった。特に食糧事情は、昭和20年(1945)の未曾有の不作・凶作によって悪化の一途をたどり、配給の遅配・欠配が相次いだ。不足する物資を手に入れるには、闇市や買い出しに頼らざるをえず、タケノコの皮をはがすように着物を1枚づつ脱いで食糧と交換する「タケノコ生活」を送る有様であった。
また政府は、闇取引による急激なインフレーションを抑えるため、「経済危機緊急対策」のひとつとして、個人や法人の預金封鎖を実施した。戦中の国債や公債はほとんど価値のないものとなったうえ、この処置によって月毎に引き出せる金額が世帯主で300円、その他の世帯員は100円の新円のみとなり、旧紙幣の使用は禁じられた。人々は物資不足のうえ、わずかな蓄えさえ使うことが制限されたのである。
多くの国民が激しい物資不足による困難な暮らしを送るなか、とりわけ厳しい状況におかれたのが、戦争で夫を失った妻たち(当時、「戦争未亡人」と呼ばれた)である。一家の働き手を失い、さらに幼子を抱えた母親の生活は並大抵ではなかった。恩給が停止されたうえ、働こうにも職種が限られ、男性に比べ賃金は各段に低かった。母子寮に子どもを残し、また手に職のないものは「生活保護法」による保護施設のひとつであった授産所で技術を習得し、裁縫などの手仕事でわずかな収入を得るのが精一杯であった。
戦争で父を亡くした子どもたちは、父親との思い出は僅かか、あるいはまったくなく、写真や手紙でしか偲ぶすべがなかった。子育てに苦労する母親を身近で見た子どもたちは、家事を手伝い、新聞配達などをして母親を助けた。しかし、経済的に進学を断念せざるを得ないことも少なくなかった。そのうえ、片親であることが障害となって就職先が限定される場合も多く、保護者に代わって県や市町村が身元を保証する制度が作られた。
終戦によって、子どもたちを取り囲む環境も一変しました。駅や町中では戦争により両親を失った戦災孤児たちの姿が多く見られました。一方、戦災で校舎の焼失した学校では、運動場や河原を教室とした「青空教室」で授業を再開し、また新しい教科書ができるまでは、戦中の軍国主義的な内容などを塗りつぶした「墨塗り教科書」が使われました。
昭和22年(1947)には学校制度が変わり、6・3制や男女共学が導入され、授業の内容も一新されました。子どもたちの日常生活では、姿を消していたおもちゃも徐々に復活し、新しい遊びやおもちゃも普及しました。
戦争によって両親を亡くした子どもたちのこと。昭和23年(1948)の厚生省による調査では、全国で12万を超える孤児が確認されている。疎開中に両親が空襲によって死亡、孤児となったケースも多く、昭和20年年3月10日の東京大空襲では下町地域で200名以上の戦災孤児が出ているが、被災地域内の孤児の実態は把握されていない。
戦争で親を失った孤児たちにとって、戦後の荒廃した時代を生きることは生易しいことではなかった。孤児収容施設も不充分で、引き取り手がないまま浮浪児になったり、親戚・知人をたらい回しにされたり、養子に出され安価な労働力として働かされたりで、義務教育すら満足に受けられない孤児も多かった。そのため行き場のない孤児たちは、廃墟や駅の地下道などに住み、靴磨きやモク拾いをして飢えをしのがなければならなかった。政府は孤児たちを保護するとの名目で、一斉強制保護収容を繰り返したが、なかには児童保護施設への収容をきらって逃げ回る孤児もいた。
空襲によって校舎が焼失した学校では、校庭などの野外に生徒を集めて「青空教室」で授業を再開した。戦時中の教科書は、軍国主義的であったり民主主義に反するような部分があるため、墨で塗ったり、切り取ったりして授業で使われることとなった。このような混乱のなかで戦後の教育は始まったが、学校制度が新しくなるのは、昭和22年(1947)に「教育基本法」と「学校教育法」が成立してからであった。
昭和20年(1945)11月23日、神宮球場で開催された東西対抗戦からプロ野球は再開された。「青バット」大下弘、「赤バット」川上哲治が人気を二分し、子どもたちの間では野球遊びが流行した。革製のグローブやバットなどの野球用具は高価だったため、子どもたちは木や竹の棒をバット代わりにし、母親の手製の布製グローブなどを使って、空き地や路地で野球に熱中した。進駐軍の放出する空き缶を再生したブリキ製のおもちゃが登場したり、映画の影響でチャンバラごっこやブリキの鉄砲を使った西部劇ごっこも流行した。
昭和22年(1947)以降、民間貿易の一部制限つき再開や様々な統制の解除、大衆娯楽やスポーツ・文化の復興など社会全般が生活再建、産業の復興に向けて明るい兆しを見せはじめてきました。さらに、昭和20年代後半には国民所得も増えて、豊かな生活を支える様々な家庭電化製品が製造されるようになり、高度経済成長への足がかりとなりました。
戦後に再開されたGHQ(連合国総司令部)管理下の貿易は、一種の国営貿易であったが、外貨準備も受払いも政府は知らされていなかった。昭和22年(1947)8月、輸出入とも貿易庁(商工省)を通じて行うという制限つきであったが、民間貿易が再開された。繊維製品・玩具・食器・装飾品・小型カメラなどの軽工業品を輸出し、食糧や石油などの生活必需品が輸入されたが、輸入超過の赤字貿易であった。輸出用の製品には27年の講和条約発効まで、「メイド・イン・オキュパイド・ジャパン」(占領下の日本製)と表記されていた。
戦前は、家庭内の電化製品といえば電灯やラジオくらいであった。蓄音機・電気コンロ・トースター・電気アイロンなども販売されていたが、一般にはまだ普及していなかった。しかし、終戦後の混乱期を過ぎ、徐々に復興していくにつれて、家庭の電化も進み、様々な電化製品が使用されるようになった。昭和30年(1955)頃、テレビ・電気洗濯機・電気冷蔵庫の3種は、天皇位の証とされた3つの宝物にたとえて「三種の神器」と呼ばれ、人々のあこがれの的であった。しかし非常に高価なこともあり、普及するまでにはいたらなかった。27年当時、電化製品の普及率は、1位ラジオ、2位アイロン、3位コンロ、4位スタンド、5位こたつ(あんか)であった。
復興の兆しが見え始めると、人々の関心は余暇の過ごし方など文化面にも向けられるようになった。当時、映画はもっとも親しまれた娯楽のひとつで、戦争中は上映できなかった外国映画や、新たに製作された意欲的な作品は人々に歓迎され、映画館の数も戦前をしのぐ勢いであった。
スポーツも人々の関心を集め、なかでも敗戦に打ちひしがれた国民に明るい話題を提供したのは、水泳の古橋広之進選手の活躍であった。また、野球は高校野球・学生野球・社会人野球・プロ野球と幅広い層に愛され、テレビの普及によってプロレスの人気も急上昇した。
一方、戦後の混乱期には、着の身着のままの人々も多かったが、生活も安定してくると、衣服もファッションとして楽しむゆとりが出てきた。特に、女性の社会進出とともに、男性に比べて遅かった女性の洋装化が進み、ナイロンなどの化学繊維も登場して、ファッションに対する関心は一層高まった。
生活のゆとりは趣味にも反映し、人々は多様な価値観で余暇を過ごしたが、カメラブームもそのひとつである。戦後のカメラ人気は、しばらくの間はドイツ製が中心であったが、国産の技術が進歩すると、一躍カメラ産業は輸出産業の花形となった。また国内でも、観光地などでの記念撮影や日常の記録のため、カメラの需要は急速に高まり、素人カメラマンを対象とした撮影会もひんぱんに開催されるようになった。
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慰霊の旅データベース
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かつて身近に存在した生活用品などを、実際に手に取ることができます。
戦中・戦後の衣服を着たり帽子をかぶることができます。昔の写真を背景に記念撮影もできます。
パソコンで常設展示室内の詳しい情報、過去に展示した資料、ハガキ、手紙などの所蔵情報を調べることができます。
黒電話のダイヤルを回すと、もう一つの電話につながり、通話することができます。
昭和館所蔵の版画や絵画資料を定期的に新しい資料を公開します。