昭和館

常設展示室(7F)

常設展示室(7F)

7・6階の常設展示室では、昭和10年頃から昭和30年代までの国民生活上の労苦を伝える実物資料を展示しています。昭和館には現在約6万4000点の実物資料が収蔵されており、常設展示室にはそのうちの約440点が展示されています。
令和7年7月1日~7月2日まで常設展示室の資料交換を行い、実物資料約195点を交換しました。

展示ガイドスマホアプリ「ポケット学芸員(https://welcome.mapps.ne.jp/pocket/)」をダウンロードすると、スマートフォンで展示解説を聞くことができますので、ご利用ください。

常設展示室の見学や学習用に子ども学習シートをご用意しております。 こちらからダウンロードしてご活用ください。

常設展示室のご利用にあたって

  • 高校生以上は入場料が必要です。常設展示室入場料はこちらをご確認ください。
  • 展示資料には手を触れないで下さい。
  • 著作権保護及び資料保護のため、また、他の見学者の迷惑となるため、カメラ及び携帯電話等による館内の無断撮影は固くお断りします。(常設展示室「防空壕体験」及び「昭和のくらし -昭和30年代体験エリア-」の一部を除く。)

360°ビュー

7Fレイアウト 戦中の国民の暮らし

① 家族の別れ

 明治6年(1873)に施行された徴兵令は、同22年(1889)に全面改正され、ほぼすべての成人男子に兵役を義務づける国民皆兵の原則が確立されました。その後、昭和2年(1927)の兵役法に引き継がれ、原則として満20歳に達した男子は全員、徴兵検査を受けなくてはなりませんでした。検査を受けた男子は甲、乙、丙、丁、戊の5種に区分され、甲種と乙種が現役に適する者とされました。そのうち必要な人数が部隊に入営しました。
 召集令状が届くと出征する夫や息子の無事を願って妻や母親らが街頭に立ち、千人針を縫ってもらう光景が多く見られるようになりました。

  • 臨時召集令状
  • 召集を知らせる電報 昭和19年(1944)3月8日
  • 奉公袋
  • 血書のハンカチ
  • 千人針
  • 臨時召集令状
  • 御守り
  • 幟

② 家族への想い

 現在とは違って、通信技術が発達していなかった当時、残された家族は、出征した兵士たちがどこにいるか、ほとんどわかりませんでした。
 軍の動きが敵にもれないようにするため、家族は、手紙の宛先を部隊の番号などでしか知ることができませんでした。
 また、検閲によって中を開けて調べられていたため、兵士の手紙は「東洋平和のため」に、「お国のため」に頑張っている、などという型通りの文句が記されていることが多く、自分が日ごろ考えていることや、素直な気持ちを、そのまま書くことはなかなかありませんでした。

③ 昭和10年頃の家庭(第1ブース)

 昭和12年(1937)に日中戦争が始まる前の一般的な家庭には電化製品が少なく、電灯とラジオがある程度でした。都市部では水道やガスも普及していましたが、多くの家庭では井戸水を汲み上げて飲み水や炊事に使ったり、炭・薪を燃料としたかまどや七輪での炊事をしたりする家もありました。

  • ちゃぶ台
  • 氷冷蔵庫
  • 蓄音機
  • たらいと洗濯板
  • 掛時計
  • 改良かまど
  • 手洗い器
  • 蝿取り器

④ 統制下の暮らし(第2ブース)

 昭和12年(1937)の日中戦争の勃発にともない、国のために自分を犠牲にして尽くすことを呼びかける「国民精神総動員運動」が始まりました。翌年の昭和13年(1938)には、あらゆる人や物を国が動員することを認める、「国家総動員法」が制定されました。これらは、すべての国民が一丸となって、戦争に勝つ体制を作ることを目的としていました。
 こうした動きを象徴しているのが、昭和14年(1939)9月1日から始まった「興亜奉公日」です。毎月1日は、すべての国民が「戦場の労苦を偲び自粛自省」するための日と定められました。料理店や喫茶店の休業、酒の販売停止、一汁一菜、梅干し一つの「日の丸弁当」を食べるなど、暮らしのさまざまな場面で、ぜいたくがいましめられるようになりました。
 勤労奉仕、早朝の神社参拝も実施され、国家の統制が生活の隅々にまで及ぶようになりました。

  • 湯のみ(五輪マーク入り)
  • 公定価格(マル公)の表示された製品 昭和14年(1939)頃
  • 「食べられる野草」 「食べられる野草」 昭和18年(1943)
  • アイロン(陶製)
  • 国民服(乙号)・国民服儀礼章
  • 製麺器
  • 配給切符
  • 回覧板 昭和14年(1939)

⑤ 戦中の学童・学徒(第3ブース)

 昭和16年(1941)4月、尋常小学校は国民学校と改称されました。この国民学校に通う学童を少国民と呼んで、将来は立派な兵士になり、敵国と戦い、自国を守る国民になることが期待されました。学校行事でも、儀式・礼法・団体訓練が重視されました。教科書の内容も軍国主義的な色彩が濃くなりました。
 昭和18年(1943)からは中等・高等教育機関の学生・生徒、女学生たちによる勤労動員が本格化し、工場や農村に働きに出る学徒も増えていきました。その後、都市部への空襲が予想されるようになると、縁故による疎開先のない国民学校の3年生から6年生を対象に、集団疎開が行われるようになりました。

  • 鉛筆
  • 旋盤
  • 名札 昭和18年(1943)
  • アイロン(陶製)
  • 疎開先で使用されていた木箱
  • 愛国百人一首
  • 男子の制服
  • 奉安庫

⑥ 銃後の備えと空襲(第4ブース)

 銃後とは直接戦闘に加わらない一般国民、または兵士が出征した後の日本全体を示す言葉として使われました。昭和12年(1937)4月に、予想される空襲に備えるため「防空法」が公布されました。これ以降、警防団・隣組・婦人会などがそれぞれ整備・統合され、銃後を護る組織の強化が図られました。
 昭和17年(1942)4月18日、大都市を中心に日本本土に対する初めての空襲がありました。昭和19年(1944)12月から終戦にかけて空襲はさらに激しくなり、被害は全国の都市におよびました。

  • 愛国婦人会のたすき
  • 防毒面
  • 電球(灯火管制用)
  • 火たたき
  • 防火用水槽
  • 表示板「空襲警報発令中」
  • 伝単
  • 溶けた分銅

  和男君の防空探検

「和男君の防空探検」コーナーでは、昭和17年に刊行された『防空絵とき』を題材として、パソコンを使って、防空の道具や工夫についてゲーム感覚で紹介します。

操作盤

⑦ 空襲への備え

 「灯火管制」の仕組みや「警戒警報」と「空襲警報」の違い、「防空壕体験」や「空襲被害地図」で空襲の恐ろしさを学ぶことができます。

防空壕体験

実寸大の「防空壕」模型で、防空壕の狭さ、B29の飛行音・爆弾の落下音・炸裂音と振動など空襲の怖さが体感できます。

灯火管制・警報の違い

灯火管制(平常時と警報時の違い)、警報の違い(警戒警報と空襲警報の違い)をパネルと模型で学習できます。

「防空壕体験」

「灯火管制」「警報の違い」

空襲被害地図

大型タッチパネルで全国の空襲被害情報を提供します。

空襲被害地図1

空襲被害地図2

⑧ 昭和20年8月15日

 昭和20年(1945)7月26日、アメリカ・イギリス・中国の三ヵ国により、戦争の終結と、戦後処理のあり方について記した、ポツダム宣言が発せられました。8月15日正午、昭和天皇がその宣言を受け入れたことと、戦争を終わらせることを国民に伝えたのが玉音放送です。
 前日から重大な放送があることを知らされていた人々は、天皇の声に耳を傾け、やがて戦争が終わったことを知りました。戦争の終結は新聞でも伝えられましたが、この日の朝刊は午後に印刷・発送され、夕方や翌日に配達されたそうです。

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