特別企画展

Special Exhibitions

昭和を生き抜いた女性たち ~大妻コタカと大橋鎭子らが生きた時代~

この特別企画展は平成29年7月22日(土)~9月10日(日)に開催され、好評の内に終了しました。

かなしい明け暮れを過しているときこそ きよらかな おしゃれ心に灯を点けよう

『スタイルブック 1946夏』より


開催主旨


 戦争は女性のくらしに大きな変化をもたらしました。出征していく男性に代わり、戦時下での女性は様々な役割を求められるようになりました。
 終戦をむかえると、苦しい耐久生活のなか新しい制度のもとで女性の権利、進学率の向上など、戦後復興を支える女性の活躍も目立つようになります。
 昭和のなかで、女性のくらしはどのような変化を遂げてきたのか。
 本展では、困難に耐え社会進出を果たした二人の女性、大妻コタカ・大橋鎭子の生涯をあわせてみながら、昭和を生き抜いた女性たちの姿を紹介します。

【主催】

昭和館

【後援】

千代田区・千代田区教育委員会

【会期】

平成29年7月22日(土)~9月10日(日)

【会場】

昭和館3階 特別企画展会場

【入場料】

特別企画展は無料(常設展示室は高校生以上有料)

【開館時間】

10:00~17:30

【休館日】

毎週月曜日 (8月14日は開館)

【イベント】

(1)活動弁士による無声映画上映会 8月6日(日)1回目13:00~14:00、2 回目 15:00~16:00 終了しました
(2)夏休み工作体験(小学生対象)7月29日(土)、8月19日(土)11:00~15:00  終了しました
(3)展示解説 7月29日(土)、8月19 日(土)15:00~(約 45 分)   終了しました

【チラシ】

昭和を生き抜いた女性たち ~大妻コタカと大橋鎭子らが生きた時代~  (PDF:1432.70 KB)

展示構成


Ⅰ 昭和の時代のはじまり

 「大正」から「昭和」へと年号が変わっても、女性を取り巻く環境がすぐさま一変したわけではありませんでした。昭和4年(1929)にはじまる大恐慌とつづく不況の嵐は女性だけでなく、多くの人々が生活難となり、新しい時代のスタートに暗い影をもたらしました。このような経済危機の状況のなかでも、女性の権利を擁護する社会運動の高まりや、「職業婦人」の登場、戦前の若者文化の象徴であった「モダン・ガール」の流行など少しずつ変化の兆しも見られるようになりました。しかし、このような女性のくらしを取りまく動きも6年の満州事変、12年の日中戦争がはじまると大きく変化していきました。



  1.戦前期の女性のくらし
  2.大妻コタカ 「良妻賢母」の実践~女性教育者の第一人者として~
  
  (関東大震災からの復興/亡き夫に代わり財団法人大妻学院を経営)
  3.大橋鎭子 第六高等女学校時代
    (第六高等女学校時代)


銀ブラするモダンガールとモダンボーイ

銀ブラするモダンガールとモダンボーイ・中央区銀座4丁目付近

昭和10年(1935)8月
石川光陽撮影


ポスター「月星靴」

ポスター「月星靴」

昭和6年(1931)~14年


大妻コタカ 略歴
 明治17年(1884)6月21日~昭和45年(1970)1月3日

 広島県世羅郡三川村久恵(現・世羅町)の農家に生まれる。
 18歳で上京し和洋裁縫女学校(現・和洋女子大学)や、神奈川県師範学校(現・横浜国立大学)女子講習科等を卒業後、小学校正教員免許を取得し、鎌倉尋常高等小学校(現・鎌倉市立第一小学校)の訓導を務める。大妻良馬と結婚したのち、明治41年(1908)裁縫と手芸の私塾を開設。
 大正5年(1916)に現在の大妻女子大学の原点となる各種学校「私立大妻技芸伝習所」が認可された。昭和4年(1929)には念願の「財団法人大妻学院」が設立、理事長に就任した。東京大空襲により、校舎が焼失するなど度々の困難に遭うが、その後、女子教育ただ一筋に情熱を注ぎ、昭和29年(1954)に藍綬褒章、39年には女子教育者として初の勲三等宝冠章を受章した。

卒業生から贈られたルノーに乗るコタカ

卒業生から贈られたルノーに乗るコタカ

昭和27年(1952)~
大妻学院提供



大橋鎭子 略歴
 大正9年(1920)3月10日~平成25年(2013)3月23日

 東京府深川区(現・東京都江東区)に生まれる。幼少期を北海道で過ごしたのち、東京・牛込、神奈川県・鎌倉で学校生活を送る。日本興業銀行(現・みずほ銀行)への就職を経て、日本女子大学に入学するも病気のため半年で退学。昭和16年(1941)に日本読書新聞社に入社する。戦後、女性のための新しい雑誌として『美しい暮しの手帖』(のちに『暮しの手帖』)を花森安治らと創刊。女性のくらしを豊かにする雑誌を作るため平成に至るまで編集者として活躍し続けた。

出版社「衣裳研究所」の設立を志す

出版社「衣裳研究所」の設立を志す

昭和20年(1945)
暮しの手帖社提供


Ⅱ 戦時下に生きる

 昭和12年(1937)7月に日中戦争が始まると、新しい時代の風潮も一変しました。女性は出征した男性に代わる働き手として、より多くの子どもを産む母として、地域を守るリーダーとして戦時体制下での役割が重要視されていくようになります。戦時下での女性の務めは「銃後の護り」とされ、町内会・部落会・隣組を通じて地域ごとに女性を組織する大日本婦人会が結成され、戦争遂行のための総動員体制がつくられました。
 また出征兵士の増加にともなう労働力の不足は、女性の動員により補われていくようになりました。これにより女性の職業進出がすすんだ一方、勤労動員や女子挺身隊を通じた労働は長時間にもおよぶ苛酷なものでした。



  1.戦時下の女性たち
     (1)男性に代わる働き手として (2)地域、家、銃後の守り手として
  2.大妻コタカ 「銃後の守り」と女子教育に尽力
  
  (生徒の勤労動員/東京大空襲と再度校舎焼失)
  3.大橋鎭子 戦時統制下の出版社
    (日本興業銀行に就職/日本読書新聞社に就職)

男子従業等禁止制限従業者調査表

男子従業等禁止制限従業者調査表
今井孝次朗さんが、警視庁に提出した書類。男子従業員 3名が、就業禁止の「注文取」に該当したことを示している。なお、注文取の就業禁止は昭和19年3月15日より施行された。

昭和18年(1943)12月


ポスター「新日本民一億の総進軍」

ポスター「新日本民一億の総進軍」
製薬会社の標語入りポスター。モデルの女性は「防火担任者」のたすき掛けの防空服装で、薬とは全く関係はないが、時局を感じさせる。

昭和17年(1942)頃


作業袋・鉤

作業袋・鉤
長尾(旧姓大村)多津子さんが勤労動員先の日清紡績工場で、製糸作業に従事していた際に使用していた道具。紡錘で巻き取っている糸が切れると、鉤でかき出して専用の機械で糸をつないだ。袋は腰に巻いていた。

昭和20年(1945)


東京大空襲の焼け跡での卒業式

東京大空襲の焼け跡での卒業式
中等部を含め、学校別に行われた卒業式は、大妻学院本校舎前の焼け跡で、先生も、生徒もモンペ姿で行われた。

昭和20年(1945)3月
大妻学院提供



Ⅲ 戦禍をくぐり抜けて

 終戦をむかえてもなお、人々は深刻な物資・食糧不足による苦しい生活の日々が続きました。しかし、生活の混乱が続くなか新しい社会へと戦後の様々な改革が進められ、新憲法の発布、選挙法改正により婦人参政権が付与され、昭和21年(1946)4月に行なわれた総選挙では39人の女性代議士が誕生しました。
 さらに翌 22 年には教育の男女平等化が実現し、これにより女性の進学率は徐々に上昇していきました。女性のくらしが新たな時代へと変化しはじめた一方で、戦争で夫を亡くした戦没者の妻たちは恩給が停止され、精神的にも経済的にも苦しい生活が続いていきました。



  1.戦後復興と女性
     (1)新しい制度の下で (2)女子教育の発展 (3)戦没者妻たちの戦後
  2.大妻コタカ 焼け跡からの再建
  
  (教職追放と大妻女子大学発足/復職そして理事長就任)
  3.大橋鎭子 『暮しの手帖』に込めた女性のくらし改革
    (『スタイルブック』創刊/『美しい暮しの手帖』創刊)

ワンピース

ワンピース
山形県鶴岡市の工藤(旧姓山口)貞子さんのもの。東京で生地を買い求め、本を見ながら自分で縫い上げた。工藤さんの当時の月給は 6,000円程度だったが、材料費に 2,000円程かかった。鶴岡市内で洋装は目立ったので、上京時などに着用していた。

昭和25年(1950)~26年頃


早稲田大学の共学クラス

早稲田大学の共学クラス

昭和21年(1946)3月
米国立公文書館提供


学校の教室に掲げられた毎月の実行要目

学校の教室に掲げられた毎月の実行要目
(左から1月・3月・5月)
1つの要目は表裏に2ヶ月分記されており、11ヶ月分(8月は夏休みのため無し)の実行要目が残っている。

大妻女子大学博物館所蔵


ポスター「救え! 東北水害義捐金募集」 東京都議会・東京都・各区会・各区・八王子市・立川 市

『スタイルブック 1947冬』

衣裳研究所刊
昭和21年(1946)11月


Ⅳ 新しい時代を目指して

 戦後の改革により女性の地位は大きく向上しました。昭和31年(1956)『経済白書』に「もはや戦後ではない」と記されて以降、経済復興が進み、大量生産・大量消費の時代へと突入していきます。「三種の神器」の登場などにより家事の負担が減り、女性は社会にでて働く機会が増えていきました。



  1.30年以降の女性のくらし
     (1)女性の社会進出 (2)新しい家・くらし
  2.大妻コタカ 女子教育のために

  3.大橋鎭子 新しい女性のくらしを提案
    (『暮しの手帖』の発展/「商品テスト」)

通知

通知
小野善三郎さんが新築の鉄筋コンクリート建てアパート、江古田住宅の入居を申し込み、抽選が当たったことを知らせたもの。大変な数の応募があったので、自分でも当たるとは思っていなかったそうだ。4階建てアパートの4階
に入居し、当初の1ヶ月分家賃は3,260円だった。

昭和33年(1953)


ポスター「新しい時代のせんたく剤」

ポスター「新しい時代のせんたく剤」
昭和26年(1951)に発売された家庭用合成洗剤「花王粉せんたく」のポスター。「日本で初めて出来た強力万能の新化学洗剤」のコピーで、50万個を無料で学校やデパート、住宅街で配布するという大がかりな販売戦略がとられた。28年には公募によって「ワンダフル」と名を変えて市場に送り出され、電気洗濯機メーカーとのタイアップ販売も行われた。

昭和25年(1950)


『暮しの手帖』を代表する企画「商品テスト」のため洗濯機のテストをする鎭子

『暮しの手帖』を代表する企画「商品テスト」のため洗濯機のテストをする鎭子

昭和36年(1961)頃
暮しの手帖社提供


洗濯機

洗濯機
電動機絞り器付きの撹拌式洗濯機。昭和30年(1955)当時53,000円。洗濯機中央の攪拌翼を反転さて汚れを落とす仕組みで、タイマーも付いていないシンプルな構造である。
28年に噴流 (ふんりゅう)式洗濯機が発売され、電気洗濯機が一般家庭に普及するきっかけとなった。噴流式洗濯機はパルセーター(回転翼)を高速回転させ激しい水流を起こして洗うので、洗濯時間が短縮するうえ撹拌式と比べ構造が簡単でコストが安かった。さらに撹拌式が丸型だったのに対して、噴流式は角型で場所をとらないので日本の住宅事情により適していたことも普及の大きな要因であった。こうして主婦は「たらいに洗濯板」の重労働から解放されていった。

昭和29年(1954)製



イベント

(1)活動弁士による無声映画上映会  終了しました

活動弁士:ハルキ
期日:8月6日(日)
場所:1階ニュースシアター
定員:各回60名

1回目:13時~14時
演目:「子宝騒動」、「大学は出たけれど」
2回目:15時~16時
演目:「毬の行方」

(2)夏休み工作体験(小学生対象) 終了しました

戦中・戦後の子ども雑誌を参考に、紙飛行機・紙相撲など昭和の子どもの遊びを体験してみよう!
期日:7月29日(土)、8月19日(土)
時間:11時~15時まで
場所:3階会議室

(3)展示解説  終了しました

担当者による展示解説を行います。
期日:7月29日(土)、8月19日(土)
時間:15時~(所要時間 約45分)
場所:3階特別企画展会場

担当:昭和館学芸部 吉葉・藤川
TEL.03-3222-2577
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