昭和館

特別企画展

空襲とくらし ~そのとき、人々は・・・~

この特別企画展は平成26年7月26日(土)~8月31日(日)に開催され、好評の内に終了しました。

開催主旨

 このたび昭和館では、「空襲とくらし~そのとき、人々は・・・~」と題して、特別企画展を開催することとなりました。
 今から70年前の昭和19年(1944)6月、北九州地域に空襲がありました。それから軍需工場や施設などに本格的な空襲が始まり、19年末からは都市市街地への空襲により、銃後の人々にも多くの人的・物的被害が出ました。
 政府は当初から空襲による木造家屋への被害を予想し、被害を最小限にするための灯火管制や消防、防毒などの防空訓練が行われました。しかし、都市部への空襲が確実視されるようになると、政府は人々に縁故疎開をすすめ、疎開先がない大都市の国民学校児童たちには学童集団疎開を決定しました。
 実際の空襲は多大な人的・物的被害となり、連日の空襲で都市は廃墟と化しました。20年8月15日の終戦により、人々は空襲に怯えることのない日を取り戻しました。しかし、それは復興への長い道のりの第一歩でした。
 この特別企画展では、空襲による被害を少なくするための様々な準備や工夫、疎開制度をはじめ、想定以上だった実際の空襲被害などを、実物資料や写真、手記などを通して紹介します。

展示構成

プロローグ 防空意識の芽ばえ

 防空には、司令官の指揮下に航空隊や高射砲隊などの部隊を置き積極的に軍隊が防空にあたる「軍防空」と、敵機が襲ってきたために生じる被害を防ぎ、その被害を少なくするために人々が行う「民防空(国民防空)」があった。昭和3年(1928)7月に大阪市で日本最初の防空演習が自発的に実施され、以降都市部を中心に防空演習が盛んに行われた。

写真 関東防空演習・女子青年会救護班の作業・神奈川県横浜市本町(現・横浜市中区本町)

昭和8年(1933)8月 横浜川崎連合防護団編『関東防空演習記念写真帖』より

「愛国防空小説 空襲警報」 

 日本のSF作家の始祖といわれる海野十三(うんのじゅうざ)の作品。「愛国防空小説」と銘打たれた、少年向け空想小説。空襲が現実として予測されていない頃に、日本への空襲の様子を細かに描写している。

昭和11年(1936)

Ⅰ 空襲への備え

 戦争の長期化にともない想定される空襲に備えるため、昭和12年(1937)4月「防空法」が公布された。これにより防空に関する組織が整備され、人々は空襲に備えるため、防空に関する訓練を行った。16年12月に太平洋戦争が始まると、都市部への空襲が予想されるようになり、戦時体制が一層強化された。

写真 消防訓練

昭和15年(1940) 藤本四八(JPS)撮影 

 防空頭巾 空襲の際の落下物や炎から頭部を保護するためのもので、名札が縫い付けられている。空襲の際の負傷に備え、このように衣服や持ち物に住所や血液型を記した名札を付けることが奨励された。

Ⅱ 疎開へ転換

 開戦当時、防空は人々が一丸となってあたるものとされ、避難は認められた者を除いて許されなかった。しかし戦局の悪化で、防空体制は転換していった。 昭和18年(1943)12月、「都市疎開実施要綱」の決定で、東京都区部・横浜市・川崎市・大阪市・神戸市・尼崎市・名古屋市・門司市・小倉市・戸畑市・若松市・八幡市(門司市から八幡市まで現・北九州市)の建物や人員の疎開が決定された。 空襲も差し迫り、19年3月「一般疎開促進要綱」「都市疎開促進要目」により、建物と人員の疎開を強力に促進した。6月北九州北部に空襲による被害が出たことから、縁故疎開を原則としつつも、疎開先のない国民学校初等科3年から6年の児童に、学童集団疎開を決定した。 空襲が激しくなると、都市部の防空に従事する者を除く人員や荷物、文化財、図書なども安全な地に疎開して行った。

写真 建物疎開・新宿区四谷

昭和20年(1945)3月 石川光陽撮影

ポスター「疎開 空襲必至」 都市疎開促進を呼びかけたポスター。

写真 資料の疎開

東京都立中央図書館提供 出典:『東京都立図書館100周年記念』

上着 神田区芳林国民学校(現・千代田区立昌平小学校)

 5年生だった蓮田宣夫さんが、埼玉県北葛飾郡栗橋町(現・久喜市)の浄信寺に学童集団疎開中に着用していたもの。 母親が縫ったものを持参したが、破れても替わりがないので、面会に来た母親や寮母に継ぎをあててもらった。

昭和19年(1944)8月~21年3月

Ⅲ 空襲、そして終戦

 昭和19年(1944)6月、中国大陸から離陸したB29の空襲で北九州北部は多大な被害を受けた。7月にサイパン島、8月にテニアン島が陥落したことから、日本全土がB29の勢力範囲に入り、軍需工場や施設などへ本格的な空襲が始まった。20年になると都市部市街地への無差別じゅうたん爆撃による空襲が行われ、銃後の人々に多くの人的・物的被害が出た。20年8月15日の終戦により、空襲のない日が戻ってきたが、むしろそれからが復興への長い道のりの始まりだった。

写真 第一ホテルからみた風景・東京新橋

昭和20年(1945)9月 ビル・カーティー撮影 オーストラリア国立映像資料館提供

空襲で溶けた分銅 神田区(現・千代田区)

 岩本町の中山シウ子さんの和菓子店で、材料を量るために使っていたもの。自宅兼店舗は昭和20年(1945)2月25日の空襲で焼失し、その際の火災の高熱で溶けた分銅を焼け跡で発見した。中山さんは「二度と戦争が起こらないように…」との戒めに、ケースに入れて長年にわたり保管していた。

エピローグ 後世に語り継ぐ

 様々な体験をした人々は、自らの体験を後世代に伝えるため、手記や体験記を記し、体験を語り伝える活動を始めた。また学童集団疎開を体験した人々が疎開地を再訪し、受け入れした側と対面することも行われた。

イベント

(1)戦中・戦後の体験を語り伝える会

(2)親子で学ぶ防空体験教室

親子一緒にバケツリレーの体験などを行う。(要電話予約)

(3)展示解説

お問い合わせ

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