昭和館

特別企画展

戦後75年特別企画展「占領から独立までの軌跡 1945-1952」

この展覧会は令和2年7月18日(土)~9月6日(日)に開催され、好評の内に終了しました。

開催主旨

 昭和20年(1945)、この年を境に日本人の価値観は大きく変容します。同年8月15日正午、ラジオから流れる玉音放送により敗戦を告げられた日本国民は、戸惑いと生活苦を抱えながら、「復興」にむけて歩み始めました。しかし、家族を亡くし、住む家と財産を失い、食糧と物資が不足する過酷な状況の中で、自力で「復興」を成し遂げることは困難を極めます。
 同年9月2日、降伏文書への調印後、日本は連合国軍の占領下に置かれ、GHQによる指導のもと、「非軍事化」と「民主化」を掲げた政策と「復興」が推し進められました。さらには混沌とした日本社会に新しい秩序が築かれ、国民生活は大きく変容していきました。
 本展では、終戦から昭和27年4月28日にサンフランシスコ平和条約が発効し、日本が独立を果たすまでの6年8ヶ月間、いわゆる占領期を中心に、戦後日本の社会や生活、文化の移り変わりを紹介します。

主催昭和館(厚生労働省委託事業)
後援千代田区、千代田区教育委員会
会期令和2年7月18日(土)~9月6日(日)
会場昭和館3階 特別企画展会場
入場料無料
開館時間10時~17時30分(入館は17時まで)
休館日毎週月曜日(8月10日は開館、11日は休館)
チラシ「占領から独立までの軌跡1945-1952」チラシ

展示構成

プロローグ 昭和20年8月15日

 昭和20年8月15日正午、天皇は「日本が戦争に負けた」事実を、ラジオを通して国民に語りかけました。前日に完成した「終戦の詔勅」を天皇みずから読み上げ、国民はその玉音を拝しました。国民の殆どはこの「玉音放送」で初めて天皇の肉声を耳にし、多くの犠牲を払った戦争の降伏を知ることとなりました。その衝撃は喪失感、不安感といった、さまざまな感情を生み出す一方で、これから始まる復興の萌芽を感じる契機にもなりました。

Ⅰ 占領と改革のはじまり
GHQの日本進駐/接収/五大改革指令/日本国憲法の制定/家父長制の解消

 昭和20年(1945)9月2日、東京湾上の米戦艦ミズーリ号艦上で降伏文書の調印式が行われました。調印式に臨んだ重光葵外務大臣は「不名誉の終着点ではなく、再生の出発点」だと捉え、日本再建への希望を見出していました。対する連合国軍最高司令官ダグラス・マッカーサーは演説の中で、世界平和は「勝者敗者双方に課せられた責務」だと日本に呼びかけました。
 この日を境に平和条約が発効された27年4月28日までの6年8ヶ月間、日本はGHQ/SCAP(※以下「GHQ」という)の占領下に置かれることになりました。占領直後からGHQによる改革指令が次々と発令され、「日本国憲法」の制定、五大改革指令など、戦後日本の制度基盤がつくられ、日本の政治・経済・社会構造が根本から大きく変化しました。

※GHQ/SCAP:General Headquarters, the Supreme Commander for the Allied Powers 連合国軍最高司令官総司令部

降伏文書に署名する重光葵外務大臣

昭和20年(1945)9月2日
オーストラリア戦争記念館提供

子ども用茶碗

 「Goodbyeグッドバイ」というジープに乗った進駐軍と、「Haloow ハロー」という女の子が描かれている。

昭和20年(1945)9月以降

Ⅱ 占領政策と生活の変容
(1)生活
食糧事情/住宅事情/公衆衛生/衣料事情
(2)文化
検閲制度/映画文化の隆盛/スポーツの復活/軍需から民需への転換

 戦後、深刻な生活物資の不足により、人々は依然として苦しい生活を強いられました。焼け野原に建てたバラックでの暮らしは衛生状態が悪く、闇市に頼らざるを得ないような食糧不足のなか、栄養失調に苦しむ子どもが後を絶ちませんでした。
 GHQの占領政策は政治面のみならず文化面にも及び、出版物や映画に対して検閲が行われ、占領目的に沿わないと判断された作品は統制の対象となりました。そのようななかでも、スポーツやファッションといった戦中は禁じられていた人々の娯楽が復活し、黒澤明監督の「羅生門」がヴェネツィア国際映画祭で金獅子賞を獲得、水泳の古橋広之進が世界記録を樹立するなど、徐々に明るい話題も垣間見え始めました。

新橋の闇市

東京都港区新橋
昭和21年(1946)
衣川太一提供

DDT噴霧器

 コレラや発疹チフスなどの伝染病の蔓延を防ぐため、ノミ・シラミを駆除するDDTの散布が実施された。

戦後

ポスター「羅生門」

 昭和26年(1951)日本映画で初めてヴェネツィア国際映画祭でグランプリの金獅子賞、翌年にはアカデミー賞外国語映画賞を受賞し、一躍世界に黒澤明監督の名前をとどろかせた作品。

昭和26年(1951)

三輪車(ジュラルミン製)

 戦後は軍需品を生産していた工場などを利用して、航空機の材料であるジュラルミンを転用した鍋や釜などの生活用品が作られた。

昭和20年(1945)以降

Ⅲ 独立への道
経済政策と統制解除

民間貿易の再開~オキュパイド・ジャパン~
朝鮮特需
サンフランシスコ平和条約

 占領政策の重点が経済的自立とその安定に移行し、さらには昭和25年(1950)に朝鮮戦争が始まると、アメリカを相手とした輸出産業が活性化しました。一方で、米ソ対立や中国に関する国際情勢を背景に、講和にむけての議論が高まっていきます。西側諸国とだけの「単独ないし片面講和」か、社会主義国も含めた「全面講和」か、日本国内では政治家だけでなく知識人も議論に参加しました。
 日本主席全権の吉田茂首相が選んだ道はいわゆる「片面講和」。アメリカをはじめとする西側諸国とともに歩むことを決断し、昭和26年9月8日「サンフランシスコ平和条約」に調印、昭和27年4月28日、条約の発効とともにGHQによる占領は終わりを迎え、日本の独立が果たされました。

コーヒーセット(オキュパイド・ジャパン)

 昭和22年8月15日制限付きで民間貿易を再開するにあたり、輸出される日本製品には「Made in Occupied Japan」(占領下の日本製)の刻印をつけることが義務づけられた。ノリタケの真ん中のシンボルはマルキ印と呼ばれ、「困」という文字がモチーフになっている。文字の中心は槍になっており困難を打ち破り、丸く収まるようにと○の形にしたと伝えられている。

昭和22年(1947)~27年

めんこ

 サンフランシスコ平和条約を題材にしためんこ。「吉田首席全権」(吉田茂首相)と「アチソン議長」(ジョージ・アチソン米国務長官)の似顔絵が描かれている。

昭和26年(1951)頃

エピローグ

 昭和27年(1952)のサンフランシスコ平和条約に対して、国民世論の多くはその調印を支持しました。同年4月24日の『読売新聞』世論調査では、独立後の日本の前途に「明るい感じをもつ」(56%)という意見が最も多く寄せられました。この条約発効を境に、日本はGHQによる統制と指導のもとから離れ、自立を図ることになります。
 日本は条約調印後、資本主義国の一員として経済政策を中心とした国づくりを目指していくことになります。独立後、日本は順調に経済成長を続け、昭和31年7月の経済白書には「もはや戦後ではない」と記されました。
 戦後日本は占領期に秩序と制度の大きな転換を経て、発展を遂げました。その軌跡は今なお現代社会の歩みにもつながっているといえるでしょう。

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