昭和館

特別企画展

開館20周年記念昭和館特別企画展 「受け継がれる想い~資料に見る戦中・戦後の暮らし~」

この特別企画展は令和元年7月20日(土)~9月8日(日)に開催され、好評の内に終了しました。

主催昭和館(厚生労働省委託事業)
後援千代田区、千代田区教育委員会
会期令和4年3月12日(土)~5月8日(日)
会場昭和館3階 特別企画展会場
入場料特別企画展は無料(常設展示室は高校生以上有料)
開館時間10:00~17:30
休館日毎週月曜日
チラシ「受け継がれる想い~資料に見る戦中・戦後の暮らし~」チラシ  

展示構成

プロローグ 昭和館の資料収集について

 平成6年(1994)に昭和館の設立準備室が設置されました。各都道府県の遺族会や全国老人クラブ連合会などを通して、戦中・戦後の暮らしに関わる、約4千点の資料が寄贈され、11年3月に昭和館は開館しました。
 戦中・戦後の国民生活上の労苦を後世代に伝えるため、昭和10年(1935)頃から30年代の資料を中心に、広く寄贈を呼びかけ資料収集を図ってきました。身近な日用品や書類などが貴重な資料であることが展示を通して周知されるようになり、資料寄贈も年々増え、現在約6万点の資料を収蔵しています。
 資料受入の際には、寄贈者から使用していた時期や使用方法、資料にまつわるエピソード等をうかがい、思い出ともに寄贈を受け入れています。これまで自分で大切に保管してきたものを、しかるべき場所に収めたいということで、昭和館に来られる方も多くいらっしゃいます。しかし、近年、体験者本人からの寄贈は少なくなり、子や孫の世代からの寄贈が増加しています。
 常設展示室では、年に2回の資料交換を行い、できるだけ多くの方々の資料を展示し、また特別企画展や巡回特別企画展を通して公開しています。

切り取った絵原画

 川島清市さんが昭和20年3月10日の東京大空襲の際、九段の自宅にあった衝立に描かれていた絵を切り取って、避難しました。自宅は罹災により全焼したため、滋賀県五箇庄に移り、終戦を迎えました。その後何度か引っ越しましたが、捨てずに手元に残していました。

昭和20年(1945)3月

草履

 齋藤(旧姓林)百子さんが、昭和21年10月朝鮮・城津(現・朝鮮民主主義人民共和国金策市)から引揚げの際に、履いていた草履。祖父の林万千百(まちも)さんが、当時の様子を書いたメモと一緒に記念として保管していました。
 百子さんは当時4歳で引揚げの際の記憶はなく、万千百さんの手書きのメモ書きがあったおかげで、引揚げ時の資料であることが分かりました。

昭和21年(1946)10月

第一部 資料が語る人々の暮らし

 昭和館に寄贈された資料の中には、それぞれの家族の歩みを伝えるものがあります。戦中・戦後という激動の時代を過ごしてきた家族がどのような困難を乗り越え、支えあってきたかを私たちに伝えてくれます。
 また、学校関係の資料からは、時代に翻弄された子どもたちがたくましく生きていた様子がうかがわれます。

1,家族の物語

 戦中・戦後という時代は、出征、戦死、疎開、空襲、復員、引揚げなど、戦争の影響によって大きく家庭における家族構成や生活の場も変化しました。
 また、商売を営んでいた家族は、配給制度や企業整備の影響を受けました。
 寄贈者の中から、3つの家族、そして3つの家業を取り上げ、それぞれにまつわる物語を紹介します。

(1)昭和の家族

父親のいない母子の絵

 遺児の北野比佐雄さんが、松阪市立第二小学校2年生の時に描いた絵。父親のいない、母と子だけの姿を描いています。

昭和26年(1951)頃

二重底の弁当箱

 平松さん一家が引揚げをする際、紙幣などの貴重品を隠すために自作した弁当箱。二男の好蔵さんが7個の弁当箱から、二重底のある弁当箱を3個製作したその内2個を寄贈されました。

昭和21年(1946)

(2)家業

表札「あめ菓子 かどや商店」

昭和22年(1947)、23年頃

「開店大売出し」

 「かどや商店」を新装開店した際のチラシ。

昭和37年(1962)1月

2,学校の物語

 明治以来70年にわたって人々が学んできた尋常小学校及び高等小学校は、昭和16年(1941)4月から国民学校初等科及び高等科と改称されました。終戦後は、六・三制の新学制が実施され、22年4月からは小学校および中学校となりました。この期間、世相や、男女に関する考え方、授業内容などが大きく変化しました。

(1)戦中・戦後の学校

通知表(左)
 千葉県安房郡勝山尋常高等小学校(現・鋸南町立鋸南小学校)初等科3年生の早川正人さんのもの。

昭和12年度(1937~1938)

通信簿(中央)
千葉県安房郡勝山町国民学校(現・鋸南町立鋸南小学校)の早川正之さんのもの。1年生~6年生の成績が記されています。

昭和17年(1942~22年)

通知表(右)
 勝山町立勝山小学校(現・鋸南町立鋸南小学校)1年生の早川浩子さんのもの。

昭和24年度(1949~1950)

ランドセル

 大阪府南河内郡高鷲国民学校(現・羽曳野市立高鷲小学校)1年生に在学中の、湖東和子さんが使用していたランドセル。湖東さんは昭和19年12月風邪をひいて寝込んでいる際に空襲警報が鳴ったため、防空壕へ入りました。警報解除後に容態が悪化して、亡くなりました。ランドセルの中には通信簿やノートなどが入ており、両親はそのまま保管しました。

昭和19年(1944)

(2)学童集団疎開

学童集団疎開先で描いた絵

 東京都月光原国民学校(現・目黒区立月光原小学校)6年生だった浅野幸雄さんが、学童集団疎開先で描いた絵。再疎開先の学寮だった妙祐寺の本堂階段上に掲示しました。

昭和20年(1945)

スキー板

 東京都八名川国民学校(現・江東区立八名川小学校)4年生の杉山雅英さんは、昭和19年8月に新潟県築地村(現・中条町)海蔵寺に学童集団疎開をした。12月頃から雪が積もりだし、児童1人ずつにスキー板が与えられました。杉山さんはスキーをしたことはありませんでしたが、見よう見まねで滑れるようになり、近隣の築地国民学校(現・胎内市立築地小学校)から宿舎までスキーで滑って帰ることができました。わら靴を履いて滑っていたので、ひどいしもやけになったこともありました。20年3月頃まで滑り、その後はスキーをすることはありませんでしたが、学童集団疎開の思い出として大切に保管していました。

昭和19年(1944)8月~20年3月

(3)学徒勤労動員

封筒

 精華高等女学校(現・東海大学付属市原望洋高等学校)での勤労動員の際、報奨金を入れて渡された封筒。一緒に渡されたプリントには1ヶ月あたり19円50銭を厳封の上、生徒に渡すと保護者に伝えていました。報奨金は「子女将来のため最も有意義に御使用下され度申添候」と記されています。

昭和19年(1944)

30ミリ機関砲の弾体(上)・20ミリ弾体の信管部(下)

 東京都立第七中学校(現・東京都立墨田川高校)3年生の前沢正己さんは昭和18年11月から学徒勤労動員で、大日本兵器株式会社吾妻工場で働くこととなりました。工場では弾丸の部品加工を受け持って、日勤と夜勤の二交代制で従事していました。勤労動員先では空襲の危険もあり、いつ死ぬか分からず、前沢さんは自分が生きた証を残そうと、工場で製造していた部品をこっそり衣服の下に隠して持ち帰りました。20年3月の東京大空襲で工場は罹災し、作業は中止となり、前沢さんはそのまま中学4年で卒業しました。

昭和18年(1943)11月~20年3月

第二部 コレクション紹介

 昭和館では個人などからの寄贈資料と購入資料を所蔵しています。数多い所蔵資料の中から、いくつかのコレクションを紹介します。

1,遊び

おもちゃ(飛行機)
 荒井宏二さんが遊んだ組み立て式の木製玩具。

昭和19年(1944)頃

2,兵事行政資料

「徴兵ニ関スル書類」
 佐賀県塩田町(現・嬉野市)の兵事行政文書を綴ったもの。

昭和19年(1944)~20年

3,代用品

「鏡餅(陶製)
正月に供える鏡餅を模した代用品。

昭和12年(1937)頃~昭和20年

4,伝単

伝単
 飛行機によって散布されたビラのこと。日本語で印刷され、戦意を喪失させるような内容が多く、多数の種類が存在します。これを拾ったものは内容を読まずに警察へ届けなければなりませんでした。

5,罹災証明書

2通の罹災証明書
 東京都四谷区(現・新宿区)に住んでいた岡田知雄さん一家は、昭和20年4月13日の空襲で罹災し、渋谷区幡ヶ谷へ移りましたが、5月25日の空襲で再び焼け出されました。

昭和20年(1945)4月、20年5月

6,引揚証明書

引揚証明書
 水谷節さんは軍人であった夫の赴任に伴い、昭和17年から満州(現・中国東北部)新京に在住していました。終戦後、3人の子どもとともに朝鮮・鎮南浦(現・朝鮮民主主義人民共和国鎮南)に移動し、そこで次男陸雄さんが亡くなりました。21年6月に博多港へ上陸しました。

昭和21年(1946)6月

7,戦後検閲関係資料

墨塗り紙芝居「もちの的」
 GHQ(連合国軍最高司令官総指令部)によって昭和20年11月より紙芝居の検閲が行われました。軍国的な表現を墨で塗りつぶしています。上段は墨塗り前の紙芝居。

昭和20年(1945)11月~

8,オキュパイド ジャパン

シャツ
 昭和22年の民間貿易再開から、27年の講和条約発効までに製造された輸出製品には「メイド イン オキュパイド ジャパン(占領下の日本製)」と表示されています。

昭和22年(1947)~27年

エピローグ 次世代に伝えるために

 元号も代わり、昭和時代がさらに遠くなりました。昭和を生き抜いた人々が次々と鬼籍に入る時代を迎え、それによって資料が散逸するなか、昭和館の資料収集事業は戦中・戦後の暮らしを伝えるために、ますます重要性が増しています。
 また、次世代に昭和の暮らしを伝えるために、昭和館では昭和を生き抜いた人々による証言映像(オーラルヒストリー)の製作や、戦後生まれの若い世代を対象にした語り部育成事業なども実施しています。

溶けた分銅

 台秤の分銅が戦災による高熱で溶けたもの。東京都千代田区岩本町の中山シウ子さんの自宅兼和菓子屋店舗が、昭和20年2月25日の空襲で焼失した際のもの。「二度と戦争が起こらないように…」との戒めに、ケースに入れて長年にわたり保管していました。

昭和20年(1945)2月

文化祭で展示した焼け焦げた賞状

 昭和20年7月の仙台空襲で焼け残ったもので、焼け焦げ跡が見られます。目黒に住んでいた伊藤眞一さんは、19年夏に福島へ学童集団疎開しましたが、食糧事情の悪化と自宅が建物疎開にあったことにより、父親の生まれ故郷である宮城県仙台市に母親と弟と縁故疎開をすることになりました。東京から生活用品が届いてまもなくの20年7月に空襲にあい、防空壕の中に入れておいた荷物はほとんどが焼失してしまいました。
 後に高校教員となった伊藤さんは生徒に戦争体験を語り伝えるため、台紙に当時の状況を書き添え、文化祭で展示しました。

イベント情報

(1)映画上映会

 月光原国民学校(現・目黒区立月光原小学校)の学童集団疎開生活をえがいた映画「みんなわが子」(上映時間93分)を上映します。

終了しました

期日7月28日(日)・8月11日(日)・8月25日(日)
時間14時~15時45分
場所1階昭和館懐かしのニュースシアター
定員60名 13時から整理券を配布します。

(2)展示解説

担当者による展示解説を行います。

終了しました

期日7月27日(土)・8月24日(土) 好評につき、8月10日(土)に追加開催
時間14時30分~(所要時間 約45分)
場所3階特別企画展会場

(3)クイズラリー

各階に設置されたクイズに答えてください。参加者には記念品をプレゼントします。
期日:開催期間中

【同時開催】 開館20周年記念展示「昭和館20年の足跡」

特別企画展、写真展、企画展のチラシを一堂に展示し、この20年を振り返ります。

期日:7月20日(土)~・9月8日(日)
時間:10時~17時
場所:2階広場

お問い合わせ

〒102-0074 東京都千代田区九段南1-6-1 昭和館学芸部 財満・佐藤
TEL.03-3222-2577

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