常設展示室(7F-6F)

Permanent Exhibit Room in 7th and 6th Floor

7Fレイアウト 戦前から戦中の国民の暮らし

1 家族の別れ

明治6年(1873)に発足した「徴兵令」は、同22年には全面改正され、すべての成人男子に兵役を義務づける国民皆兵の原則が確立され、昭和2年(1927)の「兵役法」に引き継がれました。徴兵検査に合格し、入営するにあたっては、盛大に幟や旗を掲げて壮行会が行われました。戦争が始まると臨時に召集される人々が急増し、召集令状が届くと、出征する夫や息子の無事を願って妻や母親らが街頭に立ち、千人針を縫ってもらう光景が多く見られるようになりました。

出征

召集後、応召・入営を経て、戦地へ赴くことを出征というが、戦争末期になると、入営してすぐ戦地へと赴くことが多くなったため、召集された兵士を出征兵士として見送るようになった。 兵役の対象となったのは、日本内地と樺太に本籍がある満17歳から40歳までの男性で、満20歳で徴兵検査を受け、体格などにより分類され、現役兵は抽選で原則として本籍地の部隊に入隊した。戦時には兵員を確保するために、予備役などの在郷軍人を召集した。召集には召集令状を用い、到着日時・到着地・召集部隊が記されていた。充員召集、臨時召集の令状は、軍から警察を経て、市町村役場の兵事係によって届けられた。淡紅色の用紙に印刷されていたので「赤紙」と呼ばれた。現役徴集率は、昭和8年(1933)には20%であったが、太平洋戦争中、18年12月には召集年齢や地域などの枠を広げ大量徴集をはかり、19年には現役徴集率77%、114万人に及んだ。

無事を祈る

出征した肉親が無事に帰ってきてほしいと願う気持ちは、いつの時代でも変わらないものだった。街頭では千人針の一針を求める女性たちや、古くから行われていた旅に出た人や戦地に赴いた人の安全を願って行われた陰膳(留守の人が居る時と同じように膳を据えること)を据えて出征兵士の帰還を祈る姿も見られた。また、家族からの手紙や慰問袋に入れられた品々は兵士たちの心を癒した。

2 家族への想い

出征によって離ればなれになった家族が言葉を交わせたのは、限られた書簡を通じてでした。しかし、戦地とのやりとりは軍事郵便に限られ、戦地の様子や地名などについて検閲を受けたため、その内容が人々の本当の気持ちかは分かりませんでした。その点を差し引いても、戦地と家族の間で交わされた手紙からは当時の人々の思いが伝わってきます。

3 昭和10年頃の家庭(第1ブース)

昭和12年(1937)7月7日の盧溝橋(ろこうきょう)事件によって日中戦争が始まりましたが、家庭内ではまだ、戦争の影響はさほど感じられませんでした。この頃の一般的な家庭には電化製品は少なく、掃除や洗濯など家事の多くは人の手によって行われていました。都市部では水道やガスもかなり普及して次第に便利になりましたが、炭・薪を燃料としたかまどや七輪での炊事もまだ続けられていました。

茶の間

当時は畳に座る生活がほとんどで、ちゃぶ台や茶だんすなどの家具も座って使うような仕様で作られていた。また昭和10年代には、電気は全国的に普及していたが、家庭内には電灯とラジオがあるくらいで、電化製品は限られたものであった。

台所

この頃はまだ、井戸から水を汲み、炭・薪を燃料としたかまどや七輪での炊事が続けられていた。しかし、都市部を中心に水道やガスもかなり普及して、家事も次第に省力化ができるようになってきた。

井戸端

井戸端では、水汲み、炊事の準備、洗濯など多くの仕事が行われていた。どの仕事も手作業で行われたため、現在よりもかなりの時間と労力を必要とした。

4 統制下の暮らし(第2ブース)

日中戦争を契機に「国民精神総動員運動」が開始されると、挙国一致という言葉のもと、生活のあらゆる面で戦意高揚がはかられ、経済面での戦争遂行への協力も押し進められました。戦争の拡大により次第に物資や労働力も不足するようになり、昭和14年(1939)には「国民徴用令」が出され、兵役以外にも重要産業への労務が課せられました。

さらに、都市部をはじめとして食料品や生活必需品などの配給制度も導入され、16年には「金属類回収令」により家庭からも鉄や銅製品が供出されました。


統制のはじまり

戦争への動員体勢が本格的になるのは、日中戦争下で、昭和12年(1937)9月より「国民精神総動員運動」が開始されてからであった。教育・行事・体育・娯楽などあらゆる生活の面で戦意高揚がはかられ、戦争中心の生活に切り替えることを求める精神運動が進められた。14年9月1日より、毎月1日を興亜奉公日(こうあほうこうび)と決定し、戦場の労苦を偲び自粛自省するために、この日は、梅干し一つの「日の丸弁当」や、一汁一菜・禁酒禁煙、早朝の神社参拝、勤労奉仕、料理店・喫茶店などの休業、酒の販売禁止、ネオンの消灯などが実施された。このようにして、次第に国家の統制は国民生活の隅々にまで及ぶようになった。

代用品

戦争の長期化にともない、軍需物資としての金属や皮革・燃料などの資材を確保するため、政府は昭和13年(1938)頃から、これらの資材を使用した民生品の生産を制限するようになった。この不足を補うために作られたのが「代用品」で、政府は代用品の研究と普及に努め、竹製のランドセルやヘルメット、陶製のアイロンやガスコンロ・フォーク・ナイフ・栓抜き、真綿やスフの衣服、ガソリンの代わりとして木炭を燃料としたエンジンなど、様々な製品が生産され販売された。

配給

不足する生活必需品を確保するために、計画的に生産者から消費者へ必要量が行き渡る仕組みのこと。公定価格の導入による価格抑制政策がさらにすすみ、国民生活の安定を期するために主要食糧、その他の必需食料品・日用生活用品の消費の公平、価格の安定のために配給制や割当制などがとられるようになった。需要に対して供給が不足する食料品その他の生活必需品については、国家(または地方公共団体その他の団体)が該当する物品をその直接管理下または統制下に置き、個人の消費量の最大限度を規定した。その割当量を示す切符(またはこれに類する通帳・購入券)などを交付し、その切符などの提示によってのみ該当物資を購入することができた。切符配給制は、昭和15年(1940)6月から六大都市(東京・大阪・横浜・名古屋・京都・神戸)において砂糖・マッチに実施されたのを発端に、同年11月には全国へ拡大し、次第に他の生活必需品にも及んだ。


5 戦中の学童・学徒(第3ブース)

昭和16年(1941)4月、尋常小学校は国民学校と改称され、教科書の内容も改められました。国民学校では皇国民の錬成が目的とされ、学校行事・儀式・礼法・団体訓練が重視されました。また、18年からは中学生・女学生たちも学徒勤労動員が本格化し、工場や農村へ働きに出る学徒も増えていきました。

その後、都市部への空襲が予想されるようになると、縁故先のない国民学校の3年生から6年生を対象に、集団で疎開させることが決定されました。


戦中の子どもの遊び

子どもたちの遊びも戦争の影響を受けて、男子の間では兵隊ごっこ、女子には看護婦ごっこなどが人気があった。戦争中はあらゆる物資が統制の対象となっていたので、子どもたちの遊び道具も贅沢なものや軍事物資となる金属やゴムなどを材料としたものは真っ先に姿を消していった。

戦中の学校

明治以来70年にわたって人々が学んできた尋常小学校及び高等小学校は、昭和16年(1941)4月1日から国民学校初等科及び高等科と改称し、これにともない国定教科書も改訂された。義務教育期間は初等科6年、高等科2年の8年間とされ、皇国民の錬成を目的として学校行事・儀式・礼法・団体訓練が重視され、木銃による軍事教練(女子はなぎなた訓練・救護訓練・看護訓練)なども行われた。この国民学校は、22年4月、6・3制の新学制が実施され、小学校となるまで続いた。

労働力としての子ども

出征した男性に代わる労働力として期待されたのは、女性と子どもたちであった。学童は「勤労奉仕」として食糧増産等の農作業に従事するようになった。昭和18年(1943)6月25日に「学徒戦時動員確立要綱」が閣議決定されて以降、学生生徒は食糧増産、緊急物資増産、輸送力増強、国防施設の事業に、学校単位で勤労動員として従事することとなった。
さらに20年3月の「決戦教育措置要綱」では、国民学校初等科を除くすべての学校が1年間授業を停止し、生徒たちを軍需工場などに動員することが決定された。

学童疎開

昭和19年(1944)6月、B29による空襲が激しくなるなかで空襲の被害から若い生命を護り、次代の戦力を育てることと、防空の足手まといをなくして防空態勢を強化することを目的とし、「学童疎開促進要綱」が決定された。これにより縁故疎開を原則としつつ、それが不可能な国民学校初等科3~6学年の児童を集団疎開させた。19年には東京・横浜・川崎・横須賀・大阪・神戸・尼崎・名古屋・門司・小倉・戸畑・若松・八幡の13都市が指定され、学校ごとに近郊農村地帯への移動が始まり、翌20年4月には京都・舞鶴・広島・呉の4都市が追加指定され、全国で約40万人を超える児童が疎開したといわれる。疎開児童は疎開先の学校や寺院、寮などを分教場として学んだが、粗末な食事や慣れない農作業などで辛い日々を送ったものも多かった。


6 銃後の備えと空襲(第4ブース)

昭和3年(1928)から各地で始まった防空演習は、12年の「防空法」により本格化しました。また、警防団や婦人会・隣組など、銃後を護る組織によって戦争へ向けての体制づくりがすすめられました。17年4月18日の本土初空襲以降は日常生活のあらゆる部分に取り入れられ、消火訓練・灯火管制・建物疎開・防空壕の造成など徹底して行われるようになりました。

しかし、次第に直接戦闘に加わらない人々にも空襲の被害が及びはじめ、19年末から本格化した空襲によって多くの都市が被害を受けました。


銃後を護る組織と制度

昭和12年(1937)4月、戦争の長期化にともない、予想される空襲に備えるため「防空法」が公布された。以降、これに基づいて警防団・隣組・婦人会などが整備・統合され、銃後を護る組織の強化が図られた。まず、14年には、従来からあった防護団と消防組を合体させた警防団が組織された。また、15年9月には「部落会町内会等整備要綱」を制定し、部落会・町内会を整備して、その下に5~10戸を単位とした隣組を設置した。さらに、16年6月の閣議で愛国婦人会・大日本国防婦人会・大日本連合婦人会の統合を決定し、17年2月に大日本婦人会が結成された。

空襲への備え

空襲を想定して、被害を最小限にくいとめるため、防火訓練・退避訓練・撃墜模擬訓練・非常用炊出訓練などがひんぱんに行われた。昭和12年(1937)に「防空法」が公布され、国は各市町村に対して空襲による被害を防ぐための防空計画作成を義務づけ、戦時体制を強化した。これに基づき、市町村の指導によって部落会や町内会組織が強化され、防空訓練も大規模なものとなり、灯火管制・消火・防毒・退避・救護などの訓練が日常的に行われるようになった。

空襲

日本本土に対する空襲は、昭和17年(1942)4月18日に東京・川崎・横須賀・名古屋・四日市・神戸などの諸都市に対して行われたのが最初であった。さらに19年6月から終戦にかけては激化し、特に木造家屋が密集した都市部の住宅事情から火災による被害が多く、死者数約55万人に達した。


7 和男君の防空探検

「和男君の防空探検」コーナーでは、昭和17年に刊行された『防空絵とき』を題材として、パソコンを使って、防空の道具や工夫についてゲーム感覚で紹介します。

操作盤

操作の流れ

8 空襲への備え

「防空壕体験」で空襲の恐ろしさや、「灯火管制」と「警報」の違いなどを学ぶ事ができます。

防空壕体験

実寸大の「防空壕」模型で、防空壕の狭さ、B29の飛行音・爆弾の落下音・炸裂音と振動など空襲の怖さが体感できます。

灯火管制・警報の違い

灯火管制(平常時と警報時の違い)、警報の違い(警戒警報と空襲警報の違い)を模型を使って学習できます。

「防空壕体験」

「灯火管制」「警報の違い」


空襲被害地図

大型タッチパネルで全国の空襲被害情報を提供します。

空襲被害地図1

空襲被害地図2

9 昭和20年8月15日

この日の正午、戦争の終結が「玉音放送」によって国民に伝えられ、各地ではラジオの前で泣き崩れる人々の姿がありました。また、新聞でも終戦は伝えられましたが、当時は用紙不足で夕刊は休刊となっており、8月15日付の朝刊は午後に印刷・発送され、配達も夕方頃になったといわれ、翌日16日付で発行された地域もありました。

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