昭和館

特別企画展

 帰還への想い ~銃後の願いと千人針~

開催主旨

 戦時中、出征する人に贈られた千人針や日の丸寄せ書き。召集されてから出征までの限られた時間のなかで準備されるそれらのものには、家族や身近な人々の無事を祈る気持ちが込められていました。出征する人のために、会社や近隣の人々などによって壮行会が開かれ、盛大に見送られました。銃後に残った人々は、出征した人々の無事を祈って陰膳を据えたり、町内会等では武運長久祈願等も行われました。
 しかし、戦争が激しくなるにつれて、銃後の生活も変わらざるを得ず、壮行会や街頭での千人針なども次第に行われなくなり、物資不足によって千人針や日の丸を用意することも困難になっていきました。
 本展では、出征に関する実物資料や手記を通して、銃後のさまざまな祈りの形と、人々の想いを紹介します。

主催昭和館
会期平成24年7月28日(土)~8月26日(日)
会場昭和館3階 特別企画展会場
入場料特別企画展は無料(常設展示室は有料)
開館時間10:00~17:30(入館は17:00まで)
休館日毎週月曜日

展示構成

l.前史

 明治6年(1873)制定の「徴兵令」は、同22年には全面改定され、満20歳に達したすべての成人男子に兵役を義務づける国民皆兵の原則が確立した。なかには徴兵検査に不合格になることや徴集の際のくじ逃れ祈願を行う者もあった。
 日清・日露戦争を機に多くの男性が軍隊に入るようになると、出征する者たちも内心では無事に帰ることを願った。残された妻や母の気持ちは、日露戦争当時に与謝野晶子により作られた「君死にたもうことなかれ」の詩のように、戦地からの無事の帰還を望むものであった。夫や息子の戦地での無事を祈り、弾丸除けなどの様々な神仏祈願が行われ、そのようななかから千人結の習俗なども流行した。
その後、千人結は満州事変を経て、昭和12年(1937)7月、日中戦争開戦以降、千人針として新聞など様々なメディアで盛んに取り上げられるようになり、日の丸の寄せ書きとともに全国へと広がっていった。

「千人結」

浅草・浅草寺仲店での千人結びの風景を描いたもの。

口絵『風俗画報』316号、明治38年(1905)5月

祭詞

 山形県西村山郡西江村(現・寒河江市)で行われた、明治戦役における戦死病没者慰霊祭で村長が奉読した祭詞。日付が「昭和九年」を「十年」に訂正して使用していることから、毎年同様の祭祀が行われていたと思われる。

昭和10年(1935)4月

ll.戦時下の祈りの形

 軍人の徴募には徴兵制と志願制があった。徴兵制は義務であるが、志願制は当人の自由意志に任せる制度で、職業として正規軍人を志望する者も少なくなかった。
昭和12年(1937)7月に日中戦争が始まると、多くの男性が軍隊に集められた。
 出征者には家族や親族だけでなく、会社や近隣の人々からも日の丸の寄せ書きや千人針などが贈られ、出征に際しては壮行会が開かれ、盛大に見送られた。
出征後も、家族は陰膳を据えて戦地での無事を祈り、町内会や婦人会により地域の氏神などで、武運長久祈願や戦勝祈願が行われた。

  1. 出征
  2. 離れた家族への想い
  3. 無事の帰還と御礼参り

家族から贈られた千人針

 村野健二さんが陸軍に現役入営するにあたり家族から贈られたもの。村野さんの二人の弟が字と絵を描き、三人の姉妹は糸玉結びを頼んでまわった。裏には母と姉妹の名前が刺しゅうされている。

昭和19年(1944)

千人針を縫う女性・静岡市

昭和12年(1937)頃
柳田芙美緒写真室提供

日の丸寄せ書き

 御園幸雄さんが昭和18年(1943)2月、現役兵として入営の際、青年団の同僚から贈られた寄せ書き。実家は、京橋区(現・中央区)八丁堀で菓子問屋を営んでいたので、入営の日は近隣、婦人会、青年団、商売関係などの人100人以上が集まり、盛大な見送りであった。

lll 戦争末期の祈りと暮らし

 昭和18年(1943)5月のアッツ島守備隊全滅以降、新聞やラジオで「玉砕」が報じられるようになり、銃後の人々は日々厳しくなっていく戦況を知ることとなった。そのようななか召集は拡大の一途をたどり、「根こそぎ動員」が行われた。
 壮行会や街頭での千人針などは、防諜上の理由などから次第に行われなくなった。
銃後の人々の生活も、労働力や物資の不足などが深刻になり、19年末からは東京を初めとした全国の都市への空襲が本格化し、日々命の危険にさらされるようになった。

  1. 召集の拡大
  2. 切迫する銃後の生活
  3. 無言の帰還

 

贈られなかった千人針

 野村ナホさんの手元に残っていた千人針。野村さんは婦人会長を務めており、多くの出征兵士を見送るため召集の知らせが届いてから千人針を用意しては間に合わないので、あらかじめ作っておき、名前を書いて渡せばよいだけにしておいた。

「入隊兵歓送ニ就テ」

 栃木県足利市長よりの文書。国民の重要な義務であった兵役に就くにあたり、士気を鼓舞するため盛大な式典が各地でおこなわれたが、戦争の進展とともに防諜上の理由などから姿を消していった。
 この文書の中でも入隊者の駅構内での見送りや祝旗についての制限に触れられている。

昭和20年(1945)

手作りの日の丸

 崎谷克彦さんが召集の際に贈られたもの。崎谷さんは昭和19年(1944)4月に駒澤大学予科に入学、勤労動員に従事していたが、20年8月召集の知らせを受け、岡山の伯父の家へ向かった。入隊の際に持参する旗が手に入らず、母が白い絹地に着物の裏地の紅絹を当てて縫い、国旗に仕立てた。入隊日に指定された8月17日に部隊へ向かったが、そのまま帰宅した。

焼け跡で出征する兵士を見送る人々

昭和20年(1945)
毎日新聞社提供

lV.終戦、そして帰還

 昭和20年(1945)8月15日、終戦となったが、銃後でも戦地でも多くの人々が命を落とした。衣食住が不足する厳しい状況ではあったが、人々は日常生活へと戻った。
 軍隊の武装解除により復員が開始され、無事の帰還を喜びあう家族の姿が見られた。戦地から帰還する人の中には、出征のときに贈られたお守りを戦地でも手放すことなく持ち帰った人もいた。

シベリア抑留から帰ってきた千人針

 田村康憲さんが 陸軍に現役入営するにあたり、肉親の女性から贈られたもの。19年2月頃からは千島列島での守備任務につき、終戦後24年までシベリアに抑留されたが、酷寒地において腹巻きとして手放すことができなかった。故郷に帰還後、木箱に納め来歴を自ら記した。
昭和16~24年(1941~1949)

イベント

会期中に以下のイベントを開催します。

(終了しました)

(1)戦中・戦後の体験を伝える会

日時平成24年8月12日(日) 14:00~16:00
会場昭和館1階ニュースシアター

(2)展示解説

中原淳一が考案した、余った毛糸を使って可愛らしい花を作る体験ができます。

日時平成24年8月4日(土)・8月25日(土)14:00~14:45
会場昭和館3階特別企画展会場
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